7月はピース&グリーンボートに乗船
ピース&グリーンボートは、「平和で持続可能なアジアの未来」を目指して、ピースボートと韓国のNPO「環境財団」が共同でコーディネートし、日本と韓国からほぼ同数の参加者やスタッフが一つの船で東アジア各地をめぐる、平和と環境のためのクルーズです。私は2005年の1回目と今回で2度目の乗船になりました。
なにせ、大変似ている姿かたちの、でも違う国の人達が、それぞれの生活・文化の違いを体感しながら一つの船で、いえ人によっては同じ部屋で、一緒に暮らしながら旅を続けるという大変ユニークな船旅もさることながら、一緒にアジアの平和・環境を考えるプログラムを作っていくので結構毎日がハードです。
そして、そのハードなスケジュールの中、日本人と韓国人をスムーズに結び付けてくれる貴重な存在が、様々な環境・立場を持ちながらコミュニケーションコーデネーター(ピースボートでは通訳と言いません、ただ言葉だけを訳すのではなく仲を取り持つという意味でしょう)としてボランティアで参加してくれている在日コリアンの方たちです。つまり大きく分けると、韓国人と日本人と在日本韓国人、三種類の人々がひしめき合っている船なのです。
今回は特に環境を重視し、また平和維持にもつながるとして日本の六ヶ所村の核燃料サイクル計画をテーマに取り上げ、それにちなんで、寄港地も六ヶ所、八戸・釧路・カムチャッカ・サハリン・ウラジオストック・釜山に行きました。私は、船内でどちらの方々にも楽しんでいただける日本語・韓国語両方を一度に話す二次元落語を口演したり、韓国の方に南京玉すだれを教えたりする為、そして以前やはりピースボートで行ったサハリンの在サハリン韓国人の方々に落語を聞いてもらう為に乗船しました。特にサハリンは私にとって思い入れのある所なので、私の方からも是非乗船させて欲しいとお願いしていたのです。とにかくお魚やお酒の美味しい寄港地ばかりでしたので、お仕事以外は非常に贅沢旅をさせていただきました。が、それはともかく、今回はサハリンのお話をいたします。
母の故郷への思い
13年前に他界した私の母は樺太からの引揚者です。祖父が製紙会社の重役だったため、家族で渡りそして、日本の敗戦とともに帰ってきました。幼い時に聞いた話では、荷物一つ持つ事も許されず、祖母は口の中に一つだけ、持っていたダイアモンドを隠して船に乗ったのだとか。そして当時17・8歳だった母は、ソ連軍にスパイ容疑をかけられ、家族と一緒に帰ることを許されず、しばらく将校の家で家政婦のような事をさせられながら軟禁状態になったそうです。
母の青春時代に受けた精神的傷跡は深く、特にロシア人に対する憎悪感は消えないようでした。けれどもそれとは裏腹に、機会あるごとに樺太へ、サハリンへ行きたいと願っていました。生前、船の大変に苦手な母が墓参団として2回もあの地に渡ったのも、その思いの強さを物語っています。行き帰りの船では母は案の定船酔いで七転八倒、一度も起き上がることが出来ない状態だったと、同行した叔父から聞き、どうしてそんな思いまでして行くかなあと、不思議でなりませんでした。
母の没後、真打になり、そして縁あってピースボートと関るようになり、水先案内人としてお客様へのサービスや寄港地での交流イベントに出演するため、色々な国に行くようになりました。母の怨念からか、私には船酔いの神様が寄り付かず、スタッフが青い顔していても私は大丈夫といった具合で、楽しい船旅をさせてもらっています。
ただ歴史を検証する上では、時には耳をふさぎたくなるような日本の過去に犯した罪の傷跡や、いまだかつてその悔しさが癒されず、悲しみを背負って生きていらっしゃる方々のお話を聴く機会もあり、いかに自分が不勉強で色々な事に対し無関心であったかを反省させられるのであります。
サハリンは2002年にも行き今回で二度目、その時は在サハリン韓国人二世の方のお宅に一泊ホームステイさせて戴きました。今回も前回も交流会で私の韓国語での落語を披露するという目的もありましたが、やはり私にとっては母の故郷として、その空気を感じてみたかったのです。
母は嫌な目には遭ったもののその後の船で無事日本に帰ることが出来ました。けれども朝鮮人や、その方たちと結婚した日本人達の多くは、国籍が日本に無いという事で引き上げ船に乗せてもらえませんでした。半ば無理矢理労働力として連れてこられた朝鮮の方たちは日本にも、そして祖国朝鮮にも帰ることが出来ず、そして長い間保障もしてもらえず辛い戦後をサハリンで生きてこられました。
5年前にお世話になった方は、私とだいたい同じ歳、もし母がそのとき船に乗れずそのままサハリンにいることになっていたら、私は彼と同じようにこの地で暮らしていたのだと、そのとき初めて感じました。
今年お世話になったのは一世のハルモニ(韓国語でおばあちゃんの事)のお宅。20年前に御主人を亡くされ、女手一つで男の子2人を立派に育て上げ、76歳の現在も自分で畑を耕し、市場で作物を売って「本当はもっと違う仕事したいんだけど、この歳だとなかなか働き先が無くてね」、と悔しそうにおっしゃっている気丈なハルモニでした。
日本語(強制教育のため)韓国語、そしてロシア語をたくみに使いこなし、今は一人で暮らしていらっしゃいます。「昔はロシア人に差別されてひどかった、いやあ、買い物一つするんだって朝鮮人だってわかるといじめられたりね、大変だったよ。だけど今は大企業のトップが韓国人ってことが多くてね、今じゃロシア人が韓国語覚えたりして、夢のようだよ」。以前は未亡人という事で許されなかった韓国への永住帰国が叶い、今頃は韓国へ帰っているかもしれません。「息子達はロシアで働いてるからこの家は残しておいて、私が時々サハリンに帰ってくれば良いからね」、と嬉しそうに話しておいででした。ハルモニは決して日本のことを悪く言ったわけではありません。でも色々な思いを感じ取れるお話でした。
今回ハルモニのお宅にお邪魔したメンバーは韓国在住で子供の頃の強制教育で日本語ペラペラの年配の韓国人男性と京都在住の天才エンターティナーキム・チャンヘン(以前鈴本にゲストで出て貰いました)、同じく川崎育ちのミュージシャンの男の子、大阪在住のお母さんと息子さん、この四人の在日韓国人と菊千代、つまり日本人は私だけでしたので、余計にハルモニの苦労話は私の胸にチクチクと刺さったのでした。彼女はその後開かれた在サハリン韓国人会館での交流会にも忙しい中参加して下さり、私の下手な韓国・日本語による二次元落語を聴いてくれました。
戦争という悲劇の中とはいえ、日本人のために人生を翻弄され、そして今その日本人を受け入れ御馳走してくれ、まして在サハリン二世だったかもしれない私の落語を聞いて「良かったよ」と肩をたたいてくれたハルモニの笑顔を、今思い出しても涙が出ます。母の存命中に一緒に来ていたら…、そしてそのハルモニと遭えていたら…、そんな事を考え、複雑な思いに私は船に戻ってしばらく沈んでしまいました。
またちょうどその日が私の誕生日、母の怨念が私の誕生日に涙のプレゼントをくれたのかと、そして今サハリンの石油開発で格差社会を呼び、その石油産業が自然を破壊しつつある中で、父の元勤めていた会社がアメリカ資本の石油会社で、母も私もその父のおかげで生活してこられた事を思うと、余計に考えさせられたのでした。
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